就活の自己分析は「ごんぎつね」にあり!君はあの名作「ごんぎつね」を5時間語れるか?

こんにちはライターの若大将です。

いきなりではありますが、私は「ごんぎつね」が好きです。 「ごんぎつね」についてだったら5時間は余裕で語れる自信があります。 もちろん「ごんぎつね」とはあの「ごんぎつね」です。 みなさんも一度は国語の教科書で読んだことがあるのではないでしょうか?

『ごん狐』(ごんぎつね)は、新美南吉作の児童文学。南吉の代表作で、初出は『赤い鳥』1932年1月号。作者の死の直後、1943年9月30日に刊行された童話集『花のき村と盗人たち』(帝国教育会出版部)に収録された。Wikipediaより 読んだ覚えはあるけど遠い昔の記憶から内容を思い出せない。という方のためにここでざっとあらすじを説明します。

ごんぎつねのあらすじ

昔々ある村に「ごん」というキツネがいました。 ごんはいたずら好きで、いつも村人たちを困らせていました。 そんなある日、ごんは村人の「兵十」が網にかけて捕まえたウナギを盗むいたずらをします。 しかし、ひょんなことからごんは、そのウナギが実は兵十が病床に伏せる母親の為に捕まえたウナギだと知り、贖罪の思いを抱きます。

それからごんは罪滅ぼしため、兵十の家に山菜や魚を届けることにします。 ごんは兵十にはその姿を見られぬよう、毎日そっと兵十の家の納屋に栗や鮎を届けました。

しかしある日、兵十は自分の家の納屋に忍び入るごんの姿を見てしまいます。 「あれは前にウナギを盗んで行ったキツネだ」と勘付いた兵十は家に備えていた火縄銃でごんを撃ちました。 放たれた銃弾は確かにごんに命中し、ごんはその場にぐったりと倒れこんで息を引き取りました。

以上がごんぎつねのあらすじです。

私事ではありますが、先日図書館の児童向けコーナーで偶然この「ごんぎつね」を見つけ、軽い懐古心から手に取ったところ、異常なまでにごんに感情移入してしまい、気がつけばもうグチャグチャに泣いていました。 平日の昼間から。図書館の児童向けコーナーで。子供達のために作られた低めのカラフルな椅子に座りながら・・・

さておき、このごんぎつねは何故これほどまでに私の感情を揺さぶったのでしょうか? これには何か理由があるに違いありません。そして、その理由を知るということがすなわち「私を知ること」「自己分析をするということ」なのではないでしょうか?

なぜごんぎつねはこれほどまでに私の心を揺さぶったのか

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結論から言えば、私がごんぎつねに心を揺さぶられたのは「ごんに自己投影したから」です。

いたずらという手段を通じてしかコミュニケーションを取ることが出来ない不器用さ、それでいて人に迷惑をかけることについては人一倍罪悪感を感じる一貫性の無さ。 極め付けは罪悪感を感じながらもそれを一身に背負う器を持たないが故に正面を切って謝ることも出来ない不誠実さ。そのどれもが、私にとってはまるで自分を見ているようだったのです。

そのようにして、ごんの中にたくさんの「自分の要素」を見出してしまった私は、ごんの無残な最期のやりきれなさに唇を噛み締めつつ涙したのです。 平日の昼間から。図書館の児童向けコーナーで。子供達のために作られた低めのカラフルな椅子に座りながら。 このごんぎつね、これは私にとっては涙なしには読むことが出来ないものです。しかし、恐らくこの物語は特定の人にとっては全く理解不能な物語なのではないでしょうか?

ある人はこの物語に対し、こう言うでしょう。 「そもそも、いたずらをする意味がわからない」と。 そしてまた、別の人はこうも言うでしょう。 「ウナギ盗むなよ、それ人間だったら犯罪だから」と。法治国家の人間の立場からごんの道徳観に一石を投じるのです。

また別の人は言います。 「ごめんなさいは??」と。兵十に向けた誠実な謝罪をごんに求めるのです。 確かに、もしもごんが兵十の元へ赴き、黄色い頭を垂れながら細長い口を使い「この度は私の不徳の致すところ、母君に献上するはずだったウナギを、私がいたずら心のままに奪い去ったばかりに大変なご迷惑をおかけしました。 本当に申し訳ありませんでした」と謝罪をし、誠意の証として持参した銀座千疋屋の16個入り銀座ゼリーを兵十に手渡していれば、この物語はこんな悲惨な結末を迎えることはなかったでしょう。

また別の人は言います。 「クリアリングがなってない、ここがアフガンだったらこいつは栗を置く前に死んでるよ」と。 納屋に入る前に確実に周囲の安全を確保しなかったごんの無自覚さを戒めるのです。

確かに、もしもごんが納屋に入る前から装備を整え、自動小銃を握り、バディを組むことで常に互いの死角を補い合いながら周囲の草むらや物陰を確認していれば、この物語はこんな悲惨な結末を迎えることはなかったでしょう。 むしろ死んでいたのは兵十の方だったはずです。

話を戻しましょう。 つまり何が言いたいかというと。 一つの事象に対し、自分がどう感じるか? どんな気持ちを抱くか?それこそがあなたの個性を映し出している。ということです。

好きなものから考える「あなたの個性」

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人はよく勘違いしがちですが、人間にとって「好きなものそれ自体」は個性にはなりえません。 なぜなら「好きなものそれ自体」はあなたのものではないからです。

好きな音楽や映画、色や形。それらは常にあなたの外側に存在し、あなたとは無関係のままでも存在することが出来るものです。そんなものがあなたの個性であるはずがありません。

しかし、その好きなものそれ自体を捉える心だけは、間違いなくあなただけのものです。なぜなら、それはあなたの内側にだけ存在し、決して無関係でいることなど出来ないからです。好きなものを捉えるその心こそがあなた自身であり、それを失えば同時にあなたはあなたではなくなってしまいます。

よって「好きなものそれ自体」は個性そのものではなく、あなたがそれを「好きな心」こそが個性なのです。あなたにしか感じることのできない、あなただけの感情を捉えること。それが本来の自己分析です。

冒頭でも書いたように、私はごんぎつねが好きです。それはごんの持つ不器用さ一貫性のなさ、不誠実が自分のことのように思え、感情移入をしてしまうからです。

では、あなたの場合はどうでしょうか?

もしかするとあなたもごんぎつねが好きかもしれませんし、そうではないかもしれません。しかし、「何故それが好きか」という点においては、私とあなたの答えは全く違ったものになるはずです。それこそが私たちの個性です。

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